あれは海で夜釣りを楽しむために、午前三時頃に友人と車で海に行ったときのことです。
時間が時間だった為、自宅から海までの道で擦れ違った車はほんの数台だったと思います。
潮の香りが窓を開け放った車内に漂い始め、目的地まであと数分というときでした。
真っ暗な海沿いの一本道の向こうに、ぐらぐらと蛇行運転をしているらしい車のヘッドライトの黄色い灯りが現れました。
その煌々と光る灯りが次第に大きく鮮明になってくるということは、車がこちらに向かってくることを意味し、ハンドルを握っていた友人は
「危ないな」
と言い路肩に車を停めました。
「どうせ夜中の一本道だから羽目を外しているのだろう。こういう時はやり過ごした方が良い」
友人は冷ややかな態度でそう言うと、ポケットから煙草を取り出し火を付けました。
「ああ…」
と適当な返事をした私は、潮の香りに触発され早く釣り糸を垂れたいと思い、後部座席の釣り道具に目をやりました。
「そうだ、本日の目標でも聞いておこうかな。まさかまたボウズだったら、流石に君とはもう行けないぞ」
私は、いつも魚に釣り針から餌を与えているだけの友人に芝居ったらしく声をかけながら、前に向き直りました。
その瞬間、想像以上の速度で走行していたワンボックスが目の前に現れ、すぐ横を走り抜けていきました。
「おいおい、いくらなんでも蛇行運転であのスピードは危なくないか?運転手も変な顔しながら…」
「ああ…」
顔…?
冗談じゃない、私には運転手の顔など見えなかった…。
いや、見えていないのは友人の方だ…。
私には対向車の運転席に乗っている人間の顔など見えるはずがなかったのです。
なぜなら、運転手が見えるはずのフロントガラスには、べたりと女が張り付いていたのですから。
白い衣を纏い、長く細い黒髪までも風圧でガラスに張り付かせている女が…。
あのとき、悲鳴とも断末魔とも違う、地中の奥底から突き上げてくるような重い唸り声が聞こえたような気がしました。
今思えば、あれは砂浜に打ち付ける波の音だったかもしれません。
結局その日も一匹も釣れずにしょんぼりと項垂れた友人を助手席に乗せた私は、何も言わずに行きとは違う道を選び車を走らせました。
フロントガラスに張り付く女の表情など、見たくはありませんでしたから。
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